太鼓館特別研究

新居浜太鼓台の進歩と調和(7)随想

 

 

【御注意】太鼓館新居浜太鼓台の進歩と調和(1)(6)においては公式な書籍において示された記載事項を基に記述しておりますが、本項(7)の記述は公式な書籍の記載事項ではなく西園寺穂純の記憶とそれに付随する感想を述べた随想文です。御覧の際には御注意ください。

 

 

(西園寺穂純の太鼓随想)

 


「祭り改革」新居浜地方祭から新居浜太鼓祭りへ

 


●新居浜地方の秋祭りも昭和40年頃までの祭りでは、太鼓台が喧嘩するのが当たり前で喧嘩をする舁き夫達は時として地元民から英雄視されることさえありました。太鼓の喧嘩なら何をやっても許されると勘違いした舁き夫の中には、相手の舁き夫を殴る蹴るの暴行行為、家や車などの物を壊す器物損壊行為、刃物をチラつかせる銃刀法違反、原付バイクのノーヘルや2人乗りの道路交通法違反、更には立小便などの軽犯罪、果ては晴れ着の女性への痴漢行為など等、ドサクサに紛れてやりたい放題のし放題で暴れる者も居り全く手を付けられません。片や見物客も見物客で一枚上手で、輪をかけての大騒ぎ、度を越した不穏な声援、下品な喚声、形勢不利とみるや石投げで加勢し、石が無くなると民家の瓦剥ぎや近くの墓石投げなど等どちらもこちらも手を全く付けられない無法状態になることもありました。一般人が太鼓の喧嘩を見るには上手に逃げる術を身に付けておかなければならず命懸けでした。これが毎年のことです。

 

●「流石にこれはいかんねえ。喧嘩もおもろいけど、せめて無法状態だけは何とかせんといかん」こういった声が多く聞かれ、渋々ながらも市民は祭り改革に努力せざるを得なくなりました。

 

 

昭和41から昭和50年までの10年間に新居浜地方祭は様々な模索と改善に挑戦し大きく変化した新居浜太鼓祭りに進化した。

 

 

 

第1 新居浜地方祭日程統一

 

 

●昭和40年以前は、新居浜地方の秋祭りは統一ではなく地区ごとに日程が違っておりました。川東地区(八旛祭り、多喜浜祭り)が1013,14,15、上部のうち中萩(中萩祭り)が15,16,17、川西(新居浜祭り)が17,18,19、上部のうち泉川・角野・船木の各地区(東新祭、御器洗い祭り)が21,22,23でした。大生院の飯積神社氏子は今と同じ16,17でした。

 

●このうち川西祭りは船御幸のため、潮の満ち干具合のため年によっては変更になることもありました。東新祭はもう少し時代が上ると24,25,26に行われていたようです。

 

●カレンダーに丸印をつければよく分かりますが、昔は13日から23日まで中1日空けて実10日間祭りを楽しめたことになります。各地区とも初日には氏参り以外行事はありませんので、この絶妙の日程のズレは中日・最終日の美味しいところだけを持っていくことが出来ます。

 

●今から思えば延々10日間も新居浜市内のどこかで祭りをやっているという夢のような状況ですが、これが効率的ではないという理由で日程統一が図られることとなりました。その理由が、新生活運動に乗じた婦人団体からのクレームであったとか、他町の太鼓台に紛れ込んで悪事を働く喧嘩の渡り鳥排除とか様々な理由が噂されましたが、最大の理由は「祭りが長すぎて生産活動が出来ん(商売にならん)」という商工業関係者からの要望ではなかったかと思います。 

 

●反対意見も多かったと思いますが、昭和41年に現在の日程1016,17,18日に統一されました。

 

 

 

第2 新居浜市太鼓祭り(新居浜太鼓まつり)推進委員会発足

 

 

●毎年の様に当然の様に行われた喧嘩のなかでも昭和44,45年の祭りはどの地区も喧嘩が激しく、これ以上エスカレートしてしまうと人的物的被害が甚大なものになり、祭り自体の維持が困難になってしまうのではないかとの危機感さえ漂いました。

 

●そこで、「平和運行の大切さをとことん市民に認識付けし、何とか喧嘩のない祭りに仕立て上げたい。そしてあわよくば太鼓台を観光資源として日本全国に売り出したい」と思い到らし、様々な取組みを試行することになりました。その旗振り役が昭和46年に発足した「新居浜太鼓まつり推進委員会」なのであります。

 

●「新居浜市太鼓祭り推進委員会」という委員会は(令和2年9月)現在も存在しますが、もともとは昭和46年に組織されたもので、当時名称は「新居浜太鼓まつり推進委員会」と称し表記されていた記憶があります。名称だけが変わったのか改組されたのか全く別組織なのかは判然としませんが、委員会の目的自体はそれ程変わらないものと思います。@平和運行を推進して、A太鼓祭りを活用した観光振興をすることです。

 

●(令和2年9月)現在、委員は、@市議会、A市連合自治会、B行政、C各地区太鼓台運営委員会(協議会)、D商工会議所、E神社庁、F氏子総代会、G観光協会などの代表、から選任されており、会長には市議会議長がこれにあたることになっています。この委員会の事務局は新居浜市役所経済部運輸観光課にある模様です。

 

●祭礼に行政が関与することは政教分離の大原則から認められないので、どこかに一定の制限があるのでしょうが、この委員会は物凄い発言力を有する一方、新居浜市に多くのお金を拠出させて、神事部分を除き事実上新居浜太鼓祭りを仕切っていくことになります。

 

●委員会は、手始めに昭和46年に、実施期間を昭和46年〜50年とする「太鼓まつり推進五か年計画」を策定し、昭和46年の市役所前統一寄せ、昭和464748年のテレビ出演、昭和47年よさこい鳴子踊りと交歓のため高知市、昭和48年阿波踊りとの交歓のため徳島市、昭和49年にっぽんの祭り出演のため大阪府吹田市へそれぞれ太鼓台を派遣するなど実に多彩な実績を積み重ねました。

 

●この委員会が関与したのかどうかは判然としませんが、昭和46年頃から新居浜の祭りに関する全く新しい流れが生じました。これを象徴する事象が4つあります。@舁き夫の法被着用、A喧嘩をすれば事実上翌年運行停止、B命名「にいはま太鼓まつり」、C新民謡「ちょおうさじゃ」発表です。

 

 

 

第3 舁き夫の法被着用

 

 

●何とか喧嘩をしない手法が無いものかと模索した模様で、「飾り幕を外さないよう幕に鍵を付けた(現物は見たことがない)」とか「法被を揃えて外人部隊殲滅」を試みたようです。前者は長続きしなかったですが、後者は今に引き継がれています。

 

●今から半世紀前、舁き夫は皆が皆法被を着用していたわけではありませんでした。各太鼓台独自のオリジナル法被は有ることはありましたが、長老や青年団幹部、運行役職者が着用しているぐらいで一般舁き夫には行き渡りませんでした。辛うじて手拭い、鉢巻きで所属太鼓台を峻別できましたが、法被ほどの明瞭性はありませんでした。

 

●揃いの法被で統一行動といえば、昭和45年の「万博・江口」、「万博・大江」法被まで遡らなければなりません。これは当時の泉敬太郎新居浜市長がポケットマネーでプレゼントしたものです。普段はケチ臭い泉市長だったのに余りの大盤振舞いに泉市長の人気も絶頂に達しました。しかし、少し生地が薄くて安っぽいとか何で背中が巴紋なのか等々疑問もいっぱいありましたが、とにかく揃った法被は綺麗でした。各地区の運営委員会は昭和47年祭礼から舁き夫に法被の着用を義務付けました。事実上、法被を着用していなければ太鼓台にまがることが出来なくなり、いわゆる外人部隊の殲滅に一役買いました。

 

 

 

第4 喧嘩をすれば事実上翌年運行停止

 

 

●最も凄かったのは、喧嘩には厳罰を持って臨む姿勢であります。「個人に対する刑事罰」と運行御取り上げという「全体に対する精神罰」の両面作戦です。

 

●昭和46年祭礼前に喧嘩禁止を申し合わせておいたのに、最終日本番で川西(中須賀対東町)と川東(山端対澤津)で喧嘩が発生しました。中須賀では指揮者が逮捕されるに至り翌年の運行を自粛します。山端と澤津も足並みを揃えるが如く翌年の運行を自粛します。

 

●喧嘩をすれば、警察に太鼓台運営の代表者又は喧嘩煽動者(自治会長、太鼓台運行責任者又は正副指揮者など)が逮捕され、身柄の拘束を受けた後釈放され書類送検されるという刑事事件の被疑者たらされることとなります。

 

●それまでは喧嘩をしても翌年の運行は出来たのですが、この時から喧嘩をすれば翌年に事実上の運行停止措置(形の上では該当太鼓台自ら運行自粛)が執られることが公になったことから、各太鼓台とも簡単には喧嘩しなくなり、昭和46年の喧嘩を最後に昭和59年の川西で喧嘩が発生するまで実に12年間も平和運行が続き、喧嘩抑止に物凄く大きな効果を上げました。

 

●同時に、市民間に燻っていた「少しぐらいなら喧嘩しても良いではないか」とか「喧嘩こそ新居浜祭りの華だ」などという喧嘩礼賛言動は徹底的に弾圧し、公式発言ではその根絶に成功しました。

 

 

 

第5 命名「にいはま太鼓まつり」

 

 

●昭和45年以前は、新居浜地方の秋祭りには統一した名称がありませんでした。当時新居浜祭りといえば川西の祭りを指し、川東は八旛祭り多喜浜祭りに分かれ、上部は中萩祭り東新祭(とうしんさい・とうしんまつり、別名御器洗い(ごきあらい)祭りと称された泉川・角野・船木の祭り)と名称がバラバラで、強いて新居浜市域全体を指すと意識する際には新居浜地方祭(ちほうさい)と呼んでいました。大生院は西条祭りに参画していますので、新居浜市でありながら新居浜地方祭には入れてもらえませんでした。

 

●昭和46年に委員会が新設された後、新居浜地方祭を指す名前として「にいはま太鼓まつり」(にいはままつりは平仮名表記であることに注意)が発表されたと記憶しています。ところが、この名前には随分違和感がありました。「新居浜祭り」じゃいけないのか。太鼓台、太鼓、秋祭りとは言うが「太鼓まつり」など言うたことも聞いたこともない。太鼓台祭りの方が良いのではないか。更に正式には新居浜が頭に付くのだが表記は平仮名なのだ。何故だ?

 

●慣れないネームも使い続けていくうちに違和感は薄まっていくものです。また、日本全国を見ても青森ねぶた祭、秋田竿灯祭り、博多祇園山笠など、「地名プラス風流の名前プラス祭り」で構成されているのが一般的なので、流儀にのっとったネーミングだったのです。これは祭りをPRする際に、何処のどんな祭りなのかを直ぐにイメージできるからだそうです。なるほど!

 

●大判のポスターの題字もこれに沿ったようです。「にいはま太鼓まつり」→「新居浜太鼓まつり」→「新居浜太鼓祭り」と時代とともに表記は揺れましたが、ニイハマタイコマツリの10音は今もキープされています。

 

 

 

第6 新民謡「ちょおうさじゃ」発表

 

 

●新居浜太鼓祭りの歌といえば、昭和48年に発表された新民謡「ちょおうさじゃ」です。「作詞石本美由起 作曲和田香苗 歌手都はるみ」の豪華メンバーの作品で、都はるみさんのレコード大賞曲「北の宿から」発表の2年前のことです。「ちょおうさじゃ」の表記には誰もが一言あるとは思います。

 

●昭和48年当時、私は高校3年生でしたが、新民謡の意味が良くわからなかったです。新民謡とは大辞林によりますと、「伝承民謡に似せて作詞・作曲された唄。多く、大正時代以降に作られたものについていう。「ちゃっきり節」「八戸小唄」など。創作民謡。」とあります。何だか新古典落語みたいでずいぶん違和感がありました。

 

●このレコードは超有名歌手作品にもかかわらず、県内を含め全国のレコード店の棚には一枚も並びませんでした。いくら都はるみさんでもこんなローカルな内容のレコードは新居浜市外じゃ絶対売れないだろうと、プレスしたレコードは全部新居浜市側が買い取り、町内会で手売りしたと聞いています。そのため、市外には一切流通せず、かなり熱狂的な都はるみさんファンで「彼女のレコードは全部持っている」という人も本当はこのレコードだけは持ってないのではないかと思います。

 

●曲自体は、太鼓台の鳴り物太鼓のリズムを導入したノリの良いものでしたが、一番冒頭で、♪太鼓見に行こ 稲穂も黄金♪という歌詞部分を、はるみさんは彼女独特「うなり」を駆使し「インナホンもコンガネヘ〜〜」と喉を2回転半ひねりさせる技巧が早くも炸裂し、市民はなかなか都はるみさんのようには上手くは歌えませんでした。

 

●私は、これは流行らないなと思っていたのですが、半世紀の間に関係者のご努力により、祭礼時の太鼓台統一行動の際の太鼓台運営委員会の先導車の音楽として導入されたことや、また市内のスーパーマーケットの販売促進の音楽として使われ続けてきたことにより、この曲を聴くとウキウキワクワクしてくる感覚が新居浜人&太鼓祭りファンに記憶蓄積が進みじわじわと浸透していき、祭り1箇月前ぐらいから聞かない日はない程の人気になっています。とうとう最近では、JR新居浜駅の電車接近メロディーにも採用され愛され続けています。

 

 

 

 (020918新規上梓)

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