太鼓館特別研究

新居浜太鼓台の進歩と調和(4)

 

 

■これは書籍「ふるさと浮島の昔話」(三浦覚著、昭和5812月4日発行、400円)に記載されていた川東の秋祭りに関する記事の中から西園寺穂純が独自に抜粋したものです。

 

 

1013日、14日、15

 

の3日間は八幡神社の秋祭りであった。宇高、沢津、町、本郷、山端、田ノ上、松神子、楠崎、又野の計9台の太鼓台が五穀豊穣と海上安全を祝って村々を担いで練り歩いた。また、多喜浜では、新田、白浜、東浜、阿島の太鼓台が別行動で祭りを祝っていた。

 

初日の13

 

は、氏参りと称して、夜が明けるのを待って、各部落の太鼓台は氏神様である八幡神社へ宮入りといって先を争って奉納するのであった。直径約1メートルで円周に鉄輪を巻いた木製の二輪車に太鼓台を乗せて拝殿前に据え、若い衆一同整列すると、神主さんが祝詞奏上のうえお祓いをしてくれるのであった。そして、宮入順の番号を入れた貼り紙を受け取って、太鼓台の前面、重受けの中央に貼って宮出しをする。

 

■氏参りの順位を争って喧嘩が起こったため、後に神社の方で順序を定めておいて宮入りをさせることになった。昭和19年までの軍国時代には宮入りの第一番は宇高の太鼓台に定まっていた。

 

■氏参りの日は、午前中だけ太鼓台の運行をして宮入りが済むと各太鼓台とも組立場所に据えておいて午後は休養していた。町の太鼓台は、浮島自治会館前の道路を真っ直ぐ東へ行って、法泉寺から町の海岸へ至る道路と交差する十字路の北側部分に据えるのが習慣であった。

 

■氏参りの夜は氏見せといって、前年の秋祭り以降に生まれた子供に紋付の着物を着せて八幡神社へ参詣させることになっていた。

 

14

 

は中の日または中祭りといって午前中は自由行動で、町太鼓台は町と浮島の大通りを残さず運行して後、盟友太鼓台である沢津を訪問、澤津の大通りを2台揃って運行して回って12時過ぎには定位置に戻るようにしていた。

 

◆道路交通取締法の出来る以前の昭和29年頃までは祭りと言えば太鼓台の鉢合わせを連想させ、近郷の人達も皆この太鼓の喧嘩を見物するのを楽しみしていた。

 

町太鼓台は沢津の太鼓台と同盟関係にあったことは前述のとおりであるが、これに対する当面のけんか相手は山端と本郷の太鼓台であって、山端・本郷は同じく互いに同盟を結んで、町と沢津に対抗していた。また、宇高と田ノ上が組んで、その相手は松神子と楠崎、又野の3つの太鼓台であった。新田、白浜、東浜、阿島の多喜浜の太鼓台は行動を別にして、同じく2つに別れて喧嘩をしていた。

 

■このような状況の中、14日の午後は各太鼓台とも多喜浜駅前に集合してかきくらべをする申し合わせになっていた。このため、多喜浜駅前へ行く時また広場から引き上げる時、喧嘩相手の太鼓台と衝突するのが例年の習わしとなっていた。

 

15

 

は、各太鼓台とも午前中は自部落の運行をして早めに昼食を済ませると、午後の喧嘩に備えて、棒の取り換え、台場に鎧をつけたり、作戦計画を練って武装に趣向を凝らしていた。宮入りは午後3時

 

(020822新規上梓)

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