西正寺穂純 新居浜太鼓祭り回想録(6)

昭和50年代西正寺穂純はドサ廻りに出ていましたので、毎年は帰新出来ませんでした。記憶のある年だけ覚え程度に記述しておきます。

昭和52年 16(日)17(月)18(火)

●2日目の午後3時頃に新居浜駅に着きましたので、そのまま歩いて多喜浜駅へ向かいました。太鼓台の群れは、駅よりまだ向うの新田地区に集合していました。駅より西の7台の太鼓台はほとんどがサラになっていたのに驚きました。全部がサラだったのか一部に古い幕があったのか、また東浜や阿島の太鼓台が参加していたのかどうかもはっきりしません。はっきりしていたのは、新田太鼓台が古い古い幕のままで参加していたことで、他所の太鼓台がサラになっていただけに、古さが余計に目につきました。3日目も八旛さんに行きましたが、宮入り前にエビスセンターから山端広場入りするようになっていました。

昭和54年 16(火)17(水)18(木)

●この年は関西圏にいました。今年こそ帰ろうと目論んでいたのですが、帰れたのは帰れたものの家に帰り着いたのは2日目の夜でした。9時頃のテレビのニュースで、新居浜祭りそれも川東の労災前の映像が映りました。ようし明日は思う存分太鼓台を見るぞとの思いを馳せながら3日目を待ちました。一夜明けると雨・雨・雨どうしようもない無情の雨で、太鼓台は動きそうにありません。文句を言うて行く先が無いことはわかっているのですが何とも口惜しい。結局太鼓台は一台も見ることが出来ませんでした。だいたい祭りの最終日に大雨が降って宮入りが中止になるなんてことは、それまで例がなかったと思います。不思議なことに今にも降りそうでも何とか持つのです。一説によると18日を祭りの最終日に決めたのはこの日が晴れの特異日であるからだとも言います。その夜、東神戸行きのバンパックフェリーに乗りましたが、船内は同じ思いの本州在住新居浜人であふれていて何か殺伐とした雰囲気でした。翌日はそのまま仕事に出ましたが、抜けるような秋の青空でした。

昭和56年 16(金)17(土)18(日)

●2日目にはバイクで上部の山根グランドへ行きました。初めてでしたが、見やすさには感心させられるし、サラ太鼓も2〜3台出来ていてなかなかのもんだと思いました。

●3日目は当然八旛神社です。宮入り後境内で、澤津本郷が軽く突っかけるような動きを見せたましがケンカになる訳はありません。この年は太鼓台を写真に納めているので今でも良くわかります。川東ではコトはありませんでしたが、川西ではオオゴトが起きていました。有名な一宮神社手水舎倒壊事故です。

昭和57年 16(土)17(日)18(月)

●この年は川東にとって一つの節目となる年でした。川東きってのいや新居浜きっての珍種「青房」をぶら下げた楠崎太鼓台が復活したのです。13年ぶりの復活らしいです。大きさや幕の図柄も旧太鼓台を忠実に再現しており、自治会員の手縫いで作製した模様です。自治会員の手縫いといえば、同じ川東で楠崎の隣部落の新田太鼓台が有名ですが、この影響を受けてのことでしょう。独特の図柄と何と言っても青房が印象的でした。

●2日目は多喜浜駅前です。この頃は全ての太鼓台が文字通り駅前広場へ入っていました。少し北の十字路あたりで落車して、上り坂を担いて広場へ入れていました。垣生組の3太鼓台が広場の西側の崖ップチへ陳取り、多喜浜組の3台は広場の東奥、高津の2太鼓台が東手前に座って、最後に神郷組が入れば完了でした。ずっと以前は日が高いうちに挙行していましたが、この項からは全太鼓台が阿島入りしてから駅広場入りするようになりましたので、もう真っ暗らでした。あの狭い広場に11台の太鼓台がひしめき合えばもう足の踏み場がありません。田之上楠崎が棒を交えそうになりました。見物の老婆が「せっかく作ったのにツライこっちゃ」と涙ぐんでいました。きっとこの老婆は楠崎の人で、田之上との昔のケンカを思い出したのでしょう。さすがにこの時は危険でした。手水舎倒壊事件の二の舞にならなくて良かったと思います。

昭和58年 16(日)17(月)18(火)  

●この年、あの又野太鼓台が復活しました。昔のイメージとは全然違う仕上がりとなっていました。ここも自治会手作りでした。

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