西正寺穂純 新居浜太鼓祭り回想録(4)

昭和43年 16(水)17(木)18(金)

●この年には、どうした訳か宇高太鼓台が出場しませんでした。地元ファンとしてはこの年何とも淋しい思いをしました。新聞紙上では17日新高橋上で太鼓台が衝突との記事があります。どこの太鼓台だったのかは見ていないので分かりませんが、どうも山端のようです。ただ、衝突の程度が許される範囲だったのか、両太鼓台ともそれ以降の運行はそのまま続行した模様です。

昭和44年 16(木)17(金)18(土)

本郷太鼓台が布団締めを新調しました。これで上から下まで揃いました。とにかく綺麗でした。

●この年は荒れに荒れまくった年でした。川西や上部でも2日目からケンカ状態となった模様ですが、川東でも1日目から東雲あたりで町太鼓台宇高太鼓台と接触して(?未確認)宇高太鼓台の車輪が田んぼにはまり込んで動けなくなる事故が発生しました。数少い人数で運行している1日目の太鼓台同士の接触事故は珍しく、あまり例がないと思います。2日目夕刻には多喜浜駅付近で神郷の太鼓と多喜浜の太鼓がケンカをしています。関与したのは、阿島白浜又野の各太鼓台です。変って3日目の八旛神社宮入りでも一波乱ありました。1日目から荒れ模様であるのに加えて2日目には既にケンカが発生しているのですから3日目が荒れない訳はありませんでした。一触即発の雰囲気で進む宮入りに何とか全部の太鼓台の入場が終ったものの、何か起こりそうな気配です。澤津太鼓台が再度の本殿回りに向う時、突如松神子太鼓台に棒を向けましたが松神子は応じませんでした。

●結局は宮入り終了後、澤津太鼓台田之上太鼓台の対戦が垣生交差点付近で展開されました。私はこの対戦を眼の前で見ましたが、棒の先のロープを握って相手の太鼓台に棒を突っかける役は自分には到底出来ないと思いました。この戦いの脇には山端太鼓台が垣生交差点法泉寺側で準備しておりました。それにしても本郷太鼓台は一切のケンカに参加しませんでした。マッサラ太鼓に平和運行で本郷太鼓台の万博出場は動き難いものと川東の誰もが感じていました。この年は川西でも大江太鼓台が新調を完了していましたが、派手なケンカをしてしまいましたので1年間の運行停止のハズです。万博出場は本郷と担くのが上手な江口太鼓台あたりかと思っておりました。夢は広がりましたが、結果は衆知の通りでした。とてもとても口惜しい思いをした年でありました。

昭和45年 16(金)17(土)18(日)

●大江と江口が万博出場をした年です。8月後半の3日間だけだったと思います。テレビで放送がありましたが、白の短パンというかハーフパンツに法被と言う何とも珍妙な舁き夫のスタイルでした。

●本祭りは、1日目・2日目と雨に祟られました。とにかく凄い雨で、やっと雨が止んだのが2日目の午後3時頃でした。この年の宇高太鼓台は気合いが入り過ぎていて、2日目の午前中いつ止むとも知れない雨の中を、青年十人位がズブ濡れになりながら太鼓台には合羽をかけて運行していました。翌3日目は嘘のような快晴になりました。私はこの年初めて川西祭りを見に行きました。大江公園にまだボロ舎みたいな建物があった時で、すごい混雑の中で差し上げたまま走るという所作を見せられた時には正直言って負けたと思いました。当時の川東では絶対に見ることの出来ない技でした。この後、友達の知り合いの漁師さんに船に乗せてもらって川西名物の舟御幸を海から眺めました。結講気持ちの良いものでした。

●お昼頃帰宅すると、川東ではエライことになっていました。川東では3日目の日程を午前中新高橋午後八幡神社宮入りと変更していました。新高橋まで見に行った人の話によりますと、新高橋には町・澤津・宇高の順で入って来ましたが、宇高が入って来た時にが澤津を通り越して宇高に突っ込み、宇高の担き棒1本が折れたというのです。

●私は午後宮入り前に、宇高自治会館前の広場へ行ってみますと、宇高太鼓台は棒の締め直しの最中でした。スペアの担き棒は友好関係にあった田之上太鼓台に貸してもらったということです。一方の町太鼓台は、八旛神社横の浮島公民館(現在の浮島自治会館)前にその姿がありました。町は少し前から高欄幕のうち正面と向正面の2枚だけを新調していましたが、この時は古い幕をつけていました。片や宇高の上水引も普通の4枚幕ではなく少し古い一枚物の幕でした。

宇高の2台の太鼓台は統一行動には参加できないので、他所の太鼓台が宮入りするのを満を持して浮島公民館前と神社前鳥居より少し西の県道上で待っていましたが、他の太鼓台が境内に入ったのを見計らったようにお互いに動き出し、丁度参道より少し西側の県道上に距離を50メートル程狭んで一時対峙したかと思うと、猛スピードでお互い目掛けて走り出しました。これがずいぶん長い時間に感じました。両太鼓台の中に割って入って両手を大きく振って制止しようとする人が居ました。何かキーンというような乾燥した音がして、気がつくと各々の太鼓台の舁き棒は相手の上水引を突き裂いていました。幕は破られ、中からはカンナ屑が出てきました。太鼓の幕の膨らみは何で維持されているか不思議でしたが遂にその正体を見ました。戦況その後は棒折り合戦となり、収拾がつかなくなってしまいました。私の記憶に間違いがなければ、宇高の棒は前4本が全部折られ、向きを反対にして尚も応戦しましたが、反対の4本をも折られたと思います。戦い済んで帰落する姿はまるで両手両足をもぎ取られたダルマさんそのものでした。町の棒も結局は全部折れたような気がします。

何が凄いカニが凄いと言っても、 幕をつけたままのケンカで舁き棒が相手の太鼓台の幕を突き破ることほど凄いものは無いと思います。勿体無いなどという感情は通り越して、何とも言えないものが漂います。破れたその幕を何十年と見守ってきた地元民なら尚更です。このケンカで宇高太鼓台は予備の幕を傷めただけでしたので翌年の出場にも支障はありませんでしたが、町太鼓台は幕の新調を余儀なくされました。いや、幕の新調は計算の上で、幕をつけたままケンカしたのでしょう。

(150531追記:昭和45年の本文中に「当時の宇高太鼓台は平時4枚ものの上水引をつけていたが、この有事の際には破損を覚悟で別に保有していた古い1枚ものをつけて喧嘩に臨んだ」ことを記載しました。確かに自分の頭の中ではではそう思い込んでいたのですが、読者情報から事実と異なる可能性があることのご指摘を受け、再度当時の写真類を見直してみますと、当時の宇高太鼓台が4枚ものをつけた写真は見当たらず、西正寺穂純の完全な記憶違いの可能性が大きくなりました。皆さんを混乱させてしまって非常に心苦しく思いますが、本文は回想録のため敢えて削除訂正は行わないこととさせていただきたく存じます。

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