西正寺穂純 新居浜太鼓祭り回想録(2)

昭和38年 13(日)14(月)15(火)

●本郷太鼓台は昭和38年に上水引と高欄幕を新調しました。あの山下八郎氏作の神功皇后三韓征伐の図柄の幕です。新調の折には金の糸の輝きが眩しくて、特に皇后の乗った御座船の図の紫色が鮮烈でした。天幕は赤白市松で、手旗は紫、括りの巻きは黄緑色、何と言っても黒法被がとてもカッコ良かったです。布団締めは後年(昭和44年)新調しますが、それまでの布団締めは厚みが薄く何かふすぼっていました。それでも他所の太鼓台がオンボロ太鼓であったためか本郷太鼓台は皆の憧れの的でした。

●山端太鼓台は、 いつの頃からか本郷太鼓台と同じ様な色模様となりましたが、昔は括りも幕の貫きも桃色でした。昔から武者絵の幕があったと思います。

●この頃は未だ統合祭りとはなっておらず、10月13、14、15日の3日間が八旛神社祭礼でした。そして15、16、17日が中萩の祭りで17、18、19日が新居浜祭りでした。八旛祭りと同じ日程で多喜浜祭りも行われていました。八旛祭りには神郷分の太鼓台も参加していて、田之上太鼓台・松神子太鼓台・又野太鼓台・楠崎太鼓台の4太鼓台が高津・垣生の5太鼓台と共に統一行動をとっていました。初日は最初に氏参りをした後は自由行動で、2日目は午前中に垣生のエビスセンター前に集合した後下原のバス停から宇高を経由して沢津に出て、新高橋上に並んでいました。午後は再びエビスセンターから江の口を西にとって田之上は榎之本広場に入った後、もう一度江の口から一路多喜浜駅構内に入っていました。この時には多喜浜祭りの太鼓台も合流することもありました。3日目は午前中に神輿のお供を名部落ごとにした後、午後は宮入りとなっていました。

●当時の神郷分の太鼓台の特徴はあまり覚えていませんが、田之上太鼓台は赤白青の三色市松の天幕で、高欄に名古屋城の幕がありました。松神子太鼓台も赤白青の三色市松の天幕だったと思います。又野太鼓台は一回か二回しか見た覚えしかありませんが、布団締めが跳ね尾のデザインでした。楠崎太鼓台は青房で、法被は青色と黒色の物があり背中の文字は丸に楠の字でした。確か天幕は赤白青の三色市松だったと思います。

●八旛祭りはこの9台の太鼓台で統一行動をしていた訳ですが、何故か多喜浜の新田太鼓台もこの統一行動に参加しているのを見たことがあります。年によって参加している年と参加していない年があったのではなかったでしょうか。新田太鼓台の幕は相当古く幕の裏布が赤色でした。この太鼓台の天幕は変っていて、赤白の市松ではありましたが正方形ではなく長方形でした。忘れてはいけないことに、この太鼓台には旗が無く九重の上には竹笹が飾られていました。そう言えば、楠崎太鼓台の旗には日の丸が用いられていました。

●この年の八幡祭りの模様は西正寺穂純の父親がその模様をカラー写真に収めていますので、その様子が手に取るように分かります。太鼓館太鼓探偵団特別!を参照してください。それによりますと、山端山端澤津澤津楠崎がそれぞれ向き合っています。

昭和39年 13(火)14(水)15(木)

●この年生まれて初めて本格的なケンカを目のあたりにしました。3日目の八旛神社宮入りの後、県道の辺りが騒がしかったので行ってみるとそこでは、本郷・山端連合軍との2対1の戦いが展開されていました。 戦況は町が苦戦していて、本郷・山端の2台の太鼓台は県道を行ったり来たりしていましたが、町は今の木村チェーンの付近の農道に追い込まれ、 町の高欄の金属棒はぐにゃっと折れ曲っていました。それでも町は太鼓を九重に上げてまで応戦しましたが、戦況に変化はありませんでした。青年団員がバイクに二人乗りして「こらっ、澤津は来んかい!町っちゃコテンパにやられよんのに!」と帰落中の澤津太鼓台を呼びに行きましたが、澤津の車は一瞬だけ止まったものの参戦はしませんでした。

太鼓館巻頭へ 112 次「40・41・41年」へ