太鼓館特別研究

新居浜太鼓台の進歩と調和(2)

 

新居浜市のホームページの記載=その起源は平安時代まで遡る説

 

■新居浜市のホームページを、「トップページ→組織で探す→運輸観光課→新居浜太鼓祭り→太鼓台の歴史概説」の順に繰っていくと次の文章が著されています。なお、下線及びマーカーは筆者が記したものです。

 

 

太鼓台の起こりがいつであるかはっきり答えられる資料は、現在のところ確認されておりません。地域の伝承によると、祭礼の時、神輿に供奉する山車の一種で信仰を対象にした神輿渡御の際、その列に参加して厳かに供奉し、豊年の秋を感謝して氏神に奉納していたもので、その(西園寺穂純注)起源は鎌倉時代、あるいは平安時代まで遡るといわれています(要出典)

 

●太鼓台が記録の上で出てくるのは、江戸時代後期、文政年間(18181830のことで、その頃は「神輿太鼓」と書かれていることが多かったのですが、時代を経るにつれて「太鼓台」あるいは「太鼓」とされることが多くなってきました。

 

●太鼓台の全国的な分布を見ると、瀬戸内海沿岸の港町、漁師町、あるいは大きな川の輸送拠点に多く見られます。これは、瀬戸内海の海上交通が古くから盛んで、物資の流通、文化の交流が活発に行われたことによるものと考えられています。

 

幕末から明治時代初期の太鼓台は、現在の子ども太鼓台くらいの大きさしかなく、飾り幕は薄めで天幕も現在のような膨らみを持ちませんでした。しかし、別子銅山の開坑により産業が発展し、地域経済が発達するにつれて太鼓台を所有する複数地域の対抗意識も高まり、明治中期以降から急速に大型化し、明治時代中期から昭和時代初期の太鼓台は、現在の太鼓台と同じくらいの大きさになり、飾り幕は縫いの発達とともに豪華に、また天幕も膨らみを持ったものを付けるようになりました。

 

●しかし、太鼓台の飾りが豪華になり、大きさも大型化するということは、その建設費用や太鼓台を担ぐためのかき夫のパワーが多く必要になります。新居浜太鼓台がこれらの問題を克服し、数多くの改良を重ねて現在に至っていることは、太鼓台が地域の「財力」と「腕力」の2方向から発展したといえるようです。

 

●現在では、瀬戸内海沿岸にある数多い太鼓台のなかでも、150人余りの男衆で差し上げられ、澄んだ秋空に舞う新居浜太鼓台の姿は、その豪華絢爛さ、勇壮華麗なことから「男祭り」の異名をもち、毎年約20万人の観衆を酔わせて止まない魅力ある祭りとして、全国的にも知られるようになりました。

 

 

(新居浜市のホームページの記載内容は以上です)

  


 

(ここから西園寺穂純の個人意見)

 

(西園寺穂純注)●西園寺穂純が黄色マーカーを施した部分の記載が良くないのではないかと思います。HP後段で「太鼓台の登場は文政年間である」と事実を明記しているのに、冒頭で太鼓台の起こりを論じ、起源を鎌倉、平安まで遡ると印象付けてしまっている。あまり太鼓台を知らない他地域の人がこれを素直に読んでしまえば、新居浜太鼓台は1,200年の歴史があると思い込んでしまいかねません。文章自体も「伝承によると〜といわれている」という事実確認を避けた記載である。何の物証も無い事項の記載は混乱の元であり、大変不適切ではないでしょうか。

 


 

「新居浜市史」の記述=その起源は平安時代まで遡る説の起源

 

(出典)上記新居浜市のホームページの元ネタはこれでしょう。新居浜市の公式記録書籍「新居浜市史」(昭和37年版)の太鼓台に関する記述であります。なお、下線及びマーカーは筆者が記したものです。

 

 

太鼓台の昔と今

 

●太鼓台は、もともと祭礼のとき、御輿に供奉する山車の一種で、京都の祇園祭のお鉾や、西条の伊曽乃神社の台尻のような物であった、御輿渡御の際、その行に参加して、清々と厳かに供奉していた物で、それだけに大変美しく装飾を施し、金糸を用いて竜の縫をした蒲団〆、また黒どんす「くくり」、緋縮緬の天幕、金糸の縫いをした竜の玉取り、また牡丹に向かい獅子の幕、茂多連蒲団など、それぞれ人物や禽獣、花などの美しい縫を施して、その美しさを競っていた物で、その装飾の縫師は川之江市と観音寺市におり、観音寺からは高木と呼ぶ縫師が秋祭りの3か月くらい前から新居浜に迎えられ、現地において制作をおこなったものであった。

 

●昔は現在と異なって、昼から夜中にかけて提灯を太鼓の四隅に吊して楽しく夜通し担ぐのであった。 平和な江戸時代においても時々喧嘩が行われて、天保年間に西町東須賀の太鼓が喧嘩をして藩から丸3年間運行が差し止められている。

 

●又、昔、大江東須賀にそれぞれ一台の太鼓台があったが、ある年観音堂のあたりで大喧嘩があり、そのため同じ漁業者でありながら沖の漁場に迄、喧嘩が持ちこされ、またなかには太鼓の喧嘩が原因して、離婚になることさえあった。 そこで両部落の幹部が協議の末、東須賀と大江の太鼓台を合同して1台にした。

 

●その後、明治の初年に及んで、久保田河原に十数台の太鼓が参集して、その美しさを競っていたとき、江口大江の太鼓が喧嘩となり、大江の太鼓が石攻めにされ、めっちゃめっちゃになってしまった。その頃内海漁業は、毎年豊漁が続き、大江の漁師たちの経済は実に豊かであった。 そのため大江は、少しも困らず、その翌年、直ちに素晴らしい太鼓台を新調した。 江口においては案じていたのに、大江では少しも困った様子がなく、平穏だったため、それがきっかけとなって、大江と江口部落は仲直りして、その後90年両部落が、円満な交わりを続けていることも、おもしろい現象である。

 

●大江と東須賀の喧嘩によって、円満に統一が行われ、又大江と江口が喧嘩によって結合されるなど、祭りという神事を通して平和が生まれたわけであろう。 昔の若い衆は実に体力が強く、殊に大江、中須賀などの青年は、漁によって腕を鍛えていたため、非常に腕力があり、太鼓を差し上げて妙技を誇るのであった。 また東町、西町、久保田、江口、新田などは農業によって鍛えていたため、肩が強く、そのため太鼓を担ぐ技術は、また一段とすぐれていたのであった。 どうしたことか昔から西町、中須賀、西原は、常に結ばれ、江口、久保田、新田、大江、東町の太鼓は、常に睦まじいとされている。

 

●昔の太鼓台は一宮神社境内、久保田河原の両所に集まり、差し方、担ぎ方の妙技を競う内に、時々横に競り合って、喧嘩となり、横倒しにされることもあったが、むかしは喧嘩の際も、飾り付けを取り除く事を恥として、どんなことがあっても飾り付けをとることをしなかったのであった。 また、お互いに体力があったので、車を用いる必要もなく、その運行ぶりは誠にうつくしいものであった。

 

●また一年交互に行われる船御幸には、古来一度も海上における太鼓の喧嘩はなく、その豪華絢爛の海上渡御は誠に壮観で、新居浜の一大名物となっている。太平洋戦争により人手不足のため、太鼓台の運行に困難を極め、そのため太鼓台は車を取り付けて行われるようになり、それがため太鼓台の喧嘩も、横の鉢合わせから車を利用した、正面よりの突っ込みによる方法に変わってきたが、これは祭りの本質を忘れた物で、誠に遺憾の極みである。 昔の五穀豊穣、海上安全、大漁業等を祝ってたころの、美しい行事に復活したい物である。

 

●新居浜の太鼓台は、御輿太鼓、また家躰台尻等とも呼ばれていた物で、明治時代に及んで現在のような形の太鼓台となった物である。

 

●前述の通り、太鼓は元々信仰を対象にした御輿渡御の際の、神具のひとつとして生まれた物で、少なくとも、平安時代ぐらいから発生していた物と考えられ、その頃は、人に見せるという性質の物ではなかったために、太鼓台も至って素朴で、一切装飾は施されていなかった。 この地方においても一柳氏が西条藩主となった寛永11年(1634年)になると、人心がやや落ち着き、人々は平和を謳歌して、祭りを楽しむようになり、秋祭りが、いよいよ盛んに行われ、伊曽乃神社では京都祇園神社のお鉾をまねた台尻が作られたようであるが、新居浜の太鼓台も、その頃から、家躰台尻として、また御輿太鼓として美しい物が作られたようになった物であろう。

 

●元禄3年(1690年)、西条藩主松平氏はお国自慢の絵巻物を、仙台藩主の伊達に送った際、28台の美しい台尻(伊曽乃神社)の絵を描いていることから、一柳氏が、城下町を開いて50幾年の間に、この地方の人々の生活が相当安定していた物と考えられ、農民たちは氏神を中心に豊稔の秋を喜び、感謝して、祭りの太鼓台をかついで、唯一の楽しみにしていたであろう。

 

●又太鼓の飾蒲団、水引、幕などに竜、白虎、獏等の金糸の縫が施されているが、これは神具、即ち御輿渡御の際使用する鉾に取り付けられた、四神旗の絵から取られた物で、青龍(東方)、白虎(西方)、朱雀(南方〕、玄武〔北方)を表現した物と推測される。 昔はこの四神旗が人々によって担がれ、またお鉾の中心に取り付けられ、また四本柱として組み立てられこれが数人によって担がれていたが、次第に変化して、中央に神楽太鼓が取り付けられて、次々に装飾が加わって今日の如き、太鼓台を作り上げたのである。

 

 

(新居浜市史の記述内容は以上です)

 


 

(ここから西園寺穂純の個人意見)

 

●新居浜市の公式書籍「新居浜市史」において、「神具としての太鼓は少なくとも平安時代ぐらいから発生していたものと考えられ、素朴ながらも太鼓台も存在した」と明記されている。

●本当かよ?

 

 (011129新規上梓)

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進歩と調和